先日、スポーツ庁が部活動の休養日に関するガイドラインの骨子を示したと報道された。ここ数年、というか1年ぐらいだろうか、教師の働き方にメスが入ると共に部活動の在り方についても議論が活発になったように思う。
まさにそれに対応する形でスポーツ庁が指針を示したという形だ。特に部活のあり方については内田良氏が積極的に記事を書くなど活動しており、またその動きを受けて日本部活動学会なるものも誕生したようだ。
そういったこともあり部活動の議論自体はすでに活発で様々な意見が出ているのだが、せっかくなので自分の見解を述べておこうと思う。
そもそも部活動とは何か
まず前提として考えたいのが「部活動ってそもそも何だ」という部分だ。
学習指導要領では「部活動は,学校教育活動の一環として,スポーツや文化,学問等に興味と関心をもつ同好の生徒が,教職員の指導の下に,主に放課後などにおいて自発的・自主的に活動するもの」となっている。
「自発的・自主的に」という点は重要だろう。
要は問題行動などが無ければ好きにやっていいということだ。
そして大切なのはこれはあくまで「課外活動」であるということだ。
そんなことはわかっていると言いたい者は多いかもしれないが、意外とわかっているようでわかっていないのだ。
その他に課外活動で思いつくものといえば何があるだろうか、例えば林間学校などの体験や遠足なども課外活動の一環だ。
ではここで問いたい。
そういった林間学校や遠足でその活動を「必死にやっていない」という理由で怒られるだろうか?またそのことで罰を受けることがあるだろうか?
もちろんまじめにやらずふざけていることで怒られることはあっても、楽しんでワイワイやる分に関して文句を言うことはまずないだろう。
ここがまず部活動とその他の課外活動で違う点だろう。
悪ふざけでもしなければ楽しく活動するだけでもいい性質のものであるにも関わらず、多くの部活動では自己犠牲と限界まで追い込む姿勢が求められているのだ。
勝たなければいけない理由はない
前述のようにあくまで部活動は課外活動であり、軽い気持ちでやってもいいし本来そうあるべきものだ。
なのに現状のような空気が日本全国津々浦々まで蔓延している理由として「勝利至上主義」があげられる。
全国大会などで勝利していくために妥協は許さず、努力すべきという考え方だ。
これを言われると黙ってしまう人も多いのだが、私ははこれが大きな間違いだと思う。
なぜなのかといえば答えは簡単だ。
「勝たなければいけない」理由というか大義が無いからだ。
何度も言うが、部活動はあくまでも任意の課外活動だ。
放課後の運動促進といったものが本来の目的であり、そこに勝たなければいけない理由など無いのだ。
勝利を目指したほうが競技力が向上するということはもちろんあるが、公共の教育の場において誰もが参加していいはずの課外活動でそれをしなければいけない必然性はない。
スポーツも文芸活動にしても社会人が個人で行えば趣味と呼ばれるものであり、私的な活動と見ていいものである。
そういったものの競技力などの向上を本来学校が担うものではなく、まして教員や一部の生徒の犠牲の上に目指すものでもないのだ。
必死に競技力向上を目指したいのであればそれは地域や民間で行えばいいことなのだ。
スポーツはそもそも遊びである
そもそもスポーツは古フランス語の「desporter」から来ており、これは「気晴らし」や「楽しむ」と言う意味の言葉だ。
そう、考えてもみればスポーツは「楽しむ」ための遊びなのだ。
別にその競技が上達したところで社会や経済になにか影響を及ぼすわけでもない。
もちろん一部の人間はプロとなって活躍するが、それも「娯楽」のスターになったに過ぎない。
(誤解のないように言うが私はスポーツ観戦は大好きだ)
もちろん人々に夢を与えるスポーツ選手が無意味だということはないし、素晴らしい仕事だとは思う。
しかしあくまで「娯楽」のスターであるプロスポーツ選手を目指すことはごくごく私的な目標であり、それを皆が目指すものではない。
勿論部活動において皆そこが目標というわけではないだろうが、どちらにせよ「遊び」の勝利に対して罰やノルマを設けて必死さを煽っていることは間違いないだろう。
要はプロになりたいと真剣に願うもの以外は「遊び」に対して必死になる必要がないのだ。
またこうも考えてみてほしい。
社会人が個人的に友人とチームを組んだりスポーツをしたりする際は、基本的に体を動かすこととリフレッシュが目的だろう。
そこで「まじめにやっていない」だの「サボってる」だのと文句を言われることはないだろう。
(一部にはあるかもしれないが一般論として)
それがなぜ学校の課外活動では努力と根性が求められるのかということだ。
遊びざかりの学生こそ気軽な気持ちでその競技に親しめて、リフレッシュする場があって当然だと思うのだ。
なので学校の部活動はそういった場であってほしいし、現に諸外国ではそういう国が多い。
教育効果にも疑問がある
こういった内容を述べると反論として「教育効果」を持ち出してくる者も少なくない。
要はきつい練習や指導に耐えることによって人間性が養われる的なアレだ。
こちらも正直言ってその効果はほとんど無いといえるだろう。
一部の部活だけをやり玉にあげて申し訳ないが、野球部の非行はよく報道される上に、野球部においてガラが悪いといったイメージを持つものは少なくない。
(勿論それ以上にまじめに競技を行っている生徒がたくさんいることは間違いないが)
特に厳しいことが多い野球部でなぜ?という話だが何のことはない。
部活動内での序列と指導を守っているだけで、それが社会生活にまったく及んでいないのだ。
結局厳しい練習と指導を行ってもそういった、社会生活や規範意識には影響を与えないということだ。
「理不尽さに耐えられる」理論も、ただの元凶ではないのか
またそれ以外にも「社会に出てからの理不尽さに耐えられる」というのもある。
これもまた論外だ。
理不尽なパワハラなど今の日本が抱える社会風土の問題に、そもそも部活動が大いに影響していると思われ、理不尽に耐えるというよりは不必要に理不尽を生み出しているのが現状だ。
それでもまだその状況で日本という国が躍進しているならいいが、今や没落の一途をたどっている。
それらを紐解けばそういった社会問題が足を引っ張っている節が大いにある。
であればその一因となっている部活動の指導など害にしかならないというわけだ。
そもそもできるだけ理不尽をなくそうと社会システムを構築しているのが先進国であるのに、まったく逆の理屈を地で行くのはおかしい。
とにかく「理不尽に耐えられる」人間が大勢育まれて得をするのは、国家の繁栄を考えない為政者と経営者だけだということだ。
ではこれからはどういう在り方がベターなのか
では部活動の在り方はどうあればいいのかといえば、前の段階でも少々触れたとおり、あくまでレクリエーション的に競技に触れることのできる形でいいのだと思う。
学校の各施設を開放して管理者(簡単な指導くらいはあったほうがいい)だけを置いて、やってみたいスポーツや趣味を楽しむのだ。
(入部というシステムは無くして、あらゆる生徒があらゆるタイミングで「参加」できるようにするのがベストだ)
要は自由参加のスポーツクラブやスポーツ教室化すればいいということだ。
勿論真剣にスポーツをやりたい子供たちの場も考える必要はある。
そこで地域や民間の団体を活用して、真剣にやりたい子供はそこで勤しめばいい。
もちろんそれが完全に自己負担となってしまっては経済力の差がもろに出て格差が出てしまうので補助金などを助成するのがいいだろう。
予算は今の部活動に投じている税金がある。
前述のように学校の部活動の方を簡便なものにすれば浮いた予算がそちらに使えるだろう。
元を返せばこの国のスポーツ教育がこのようになってしまったのは、終戦後に軍隊的な風土が残りそれらがそこに向かってしまったからだと聞く。
であればそれこそ大義などなにもなく、なんとなく残ってしまっているだけのものであるし、これだけ問題を抱えているのだから大幅に変わっていく必要がある。
特に日本人は前例主義的な傾向が強く、過去そうやってきた人間が沢山存在することで「そういうものだから」と本質を考えず問題を放置してしまいがちだ。
しかしこれから国としてもう一度輝きたいのであれば非効率で非合理なシステムは唾棄されるべきだし、その根源となる教育においてはより一層それが求められる。
昔からそうやってきたではなく、今一度本質として何がベターなのかを考えて部活動を見つめなおしてみてはどうだろか。
Be the first to comment on "部活動というものを一から見直す必要性"